龍泉寺では、龍王池を八大龍王の御神体としてお祭りしています。
龍王池の名前の由来は古く、吉備津彦命の時代(紀元前200年頃)までさかのぼります。平安時代に転記された鬼城縁起(きのじょうえんぎ)に、龍王池と龍王山の由来が記述されています。
吉備津彦命の軍奉行(いくさぶぎょう)であった楽々森舎人(ささもりとねり)は、超能力を持っていて、芦守山の山頂の岩をうがって、水をわき出させ、地域の人々をうるおしました。湧き出た水は、山の中腹の池となりました。
その後、優鉢羅龍神(うはつらりゅうじん)が芦守山に飛来し、地域の人々を護ったので、いつしか芦守山を龍王山、池は龍王池と呼ぶようになりました。
この伝説は、この地が昔から信仰の霊地であったことを物語っています。龍泉寺の境内に古代祭祀跡の巨石が残されています。
楽々森舎人は、桃太郎伝説の猿のモデルと言われています。
延長元年(923年)に書き改められたとされる「鬼城縁起(きのじょうえんぎ)」が、吉備津彦神社に伝わっています。鬼城縁起に、龍王池と龍王山についての記述があります。
鬼城縁起は「備中誌(賀陽郡)」(明治37年岡山県出版)に収録されており、「備中一宮事蹟考」の293ページの関連部分を抜粋しています。
"楽々森舎人ハ 一宮軍奉行也 須臾翔二百里一 常有二芦守山一 守二國郡一 能穿二巖石一 呼レ水
此山絶頂有レ岩 楽々森穿二此岩一 出レ水 國民汲二此水一 潤レ渇 而其水今有二中頂一
優鉢羅龍神 飛來二此山一 垂二權跡一 而護国郡 從來号龍王也″
原文に則して訳すと、
"楽々森舎人(ささもりとねり)は、一宮の軍奉行なり。短時間で、百里を飛ぶ。常に、芦守山にいて、国を守った。岩石をうがち、水を呼ぶ能力あった。
この山の頂上に、岩があり、楽々森は、この岩をうがって、水を出した。国民はこの水を汲んで、渇きを潤した。しかも、その水は、今も中頂にある。(注釈:龍王池)
優鉢羅龍神(うはつらりゅうじん)が、この山に飛来し、権跡を垂れ、しかも国を護った。それ以来、龍王と号すなり。(注釈:龍王山)″
舎人(とねり)=古代、天皇・皇族の身辺で御用を勤めた者
一宮=吉備津彦命
軍奉行(いくさぶぎょう)
楽々森(ささもり)=足守の豪族で吉備津彦命の舎人。桃太郎伝説の猿のモデルと言われている。
須臾(しゅゆ)=わずかの間
国郡=国(くに)郡(こおり)地方行政の単位
中頂(なかいただき)=山のふもとと頂上との中間
優鉢羅龍神(うはつらりゅうじん)=八大龍王の変化の一つで、青い蓮華が咲く池に住む龍神
權跡(ごんせき)=?
從來号龍王也=文脈から、「それ以来、芦守山を龍王山と呼ぶ」と解釈する。
江戸時代に、足守の大庄屋であった難波助兵衛が、龍王池を改築し、正徳三年(1713年)竣工しました。工事前の龍王池は、池や沼の集合体だったようです。
明治になって、龍泉寺の日護聖人が、龍王池の堤防がかさ上げし、現在にいたっています。